★文字としてあるということ。2019.9.30

「資料」と「史料」の違いをどのように定義づけるかというのは、意外と難しいものかと思います。江戸時代以前に書かれたものは「史料」と書いても問題はないでしょう。でも、例えば、考古の発掘物はどうするのかと問えば、きっと「資料」と答えるでしょう。これが近現代になると、「史料」と表現すること自体がはばかれたりします。

緒形拳さん関係のものはだいたい「資料」と表現しています。大体は台本、パンフレット。ポスター、チラシなどの印刷物や写真、それに映像や音声になりますから。歴史学は、文献史学が基本とも言われるように、研究題材としては、やはり文字で書かれたものを欲します。もちろん、印刷物も文字で書かれたものです。現在は、ワープロソフトで書かれることが多いですから、これも印刷物ですが、要はそこに自分の考えや思いがどのように表現されているかということです。だから、台本の書き込みや修正などは貴重な情報と言えるかと思います。でも、やはり「日記」といわないまでも、何らかの自己表現があればいいですね。

そういった意味では、緒形さんは書もたしなまれますから、演劇などに対する姿勢や自分の来歴、さらには社会情勢などについて書かれたものを残されています。それはやはり、歴史学にとって貴重な「史料」です。

先日、長男の幹太さんが緒形さんの原稿やノート、メモなどをたくさん持ってきてくださいました。これがまた興味深い。あの独特の文字ですから、それ自体味わい深いのは当たり前で、何より書かれている内容がやはり興味深いのです。書をたしなまれることで、また、読書家でもありますから、いろんな文献から言葉を探しては、自分で写したり、引用したりということがありました。それはきっと役者としての「言葉探し」から来ているのかなと想像しています。なんとかまずはこれらを活字にしたいなと思っています。繰り返しになりますが、歴史研究にはやはり「文字としてあること」が重要なのです。


馬場弘臣

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