■緒形拳のテレビ界進出②~「太閤記」以前~

大変お待たせ致しました。久々の投稿です。2月に投稿すると言っておきながら、「貧乏暇なし」の生活を送っていたもので、もう3月も間近になってしまいました。もう少しスピードアップしながら投稿しないといけませんね。m(__)m

前回は緒形さんのテレビドラマデビューとその当時のテレビ業界の状況についてご紹介しました。今回は緒形さんが新国劇の舞台役者として活躍するとともに、大河ドラマ「太閤記」以前にテレビ業界へ進出したことについて触れたいと思います。

舞台「遠い一つの道」、「丹那隧道」で新国劇の役者として頭角を現した緒形さんは、昭和36年(1961)年の12月公演「六人の暗殺者」で主役・伊吹武四郎役に起用されてから以降、翌37年の「新選組」では沖田総司を、同年の「殺陣師段平」においては同劇団の創立者・澤田正二郎を演じるなど、新国劇の多くの演目で重要な役を任されることになります。

昭和36年から昭和39年(1964)頃の新聞の演劇評をみると、緒形さんを新国劇の有望株として取り上げる記事が多くあります。この頃の緒形さんは新国劇若手のホープとしてマスメディアから注目される存在となっていたのです。

その一方、テレビ業界においても新国劇で活躍する緒形さんに着目し、ドラマに起用する動きがみられるようになります。当時のテレビ業界は急速にテレビの受像機が家庭へ普及するとともに、多様なドラマが制作されるようになっていきました。テレビの発展が、緒形さんを映像の世界へ導かせたと言えるでしょう。ここでは緒形さんがテレビに進出して間もない頃、すなわち大河ドラマ「太閤記」に出演するより前に主演したドラマをいくつかご紹介しましょう。

①「フライング・スポット」(昭和37年2月放送、NHK)…単発ドラマ。日本で初めてのテレビ受像機を発明し、「イ」という文字の送受信に成功した工学者・高柳健次郎の半生を描く。緒形さんは24歳という若さで主役の高柳役を務める。

②「一千万人の劇場 網の中の栄光」(昭和39年6月放送、フジテレビ)…単発ドラマ。実業団のバスケットボール選手の悲哀を描く。緒形さんはかつて港の荷揚げ人夫の頃に負った傷がもとで、エースの地位を追われる主人公のバスケットボール選手・三上敬二を演じる。当時の新聞のテレビ欄によると、フジテレビの担当者の話として、「主人公のもつふてぶてしさや虚無的感じ」が緒形さんに適任ということで起用されたという。

「網の中の栄光」で主演を務める緒形さん

③「一千万人の劇場 コスモスよ赤く咲け」(昭和39年11月放送、フジテレビ)…単発ドラマ。当時の混血児問題を取り上げた作品。緒形さんはアメリカ兵らとの間に生まれた子どもたちと深く交流を図るフリーカメラマンの神坂竜夫役を務めた。元々、主人公の神坂役には石原裕次郎が内定していたものの、映画撮影のスケジュールと重なってしまったため、急遽代役として緒形さんの出演が決定したという。

「コスモスよ赤く咲け」に出演する緒形さん(右)

昭和38年(1963)8月12日付の読売新聞によれば、「緒形はテレビ局や映画会社からも引っ張りダコで、舞台のスケジュールと折り合いがつかず、大半を断わるのに苦労している状態」と緒形さんのもとには、テレビドラマ、映画への出演依頼が殺到していました。しかし、新国劇の公演スケジュールに支障が生じるため、やむを得ず出演を辞退していたようです。

緒形さん自身はテレビドラマに出演することをどのように捉えていたのでしょうか。昭和40年(1965)当時の新聞でのインタビューによれば、テレビなどの他流試合について「人間を表現するうえでプラスになる」と、テレビドラマ出演が自らの演技力の向上につながっていることを述べています。また、昭和39年当時の別の新聞のインタビューでは、自らテレビドラマや映画に出演することで、新国劇の人気上昇に役立てられればとも話しています。

このように演劇、テレビなどの各界から「注目の若手俳優」として嘱望されるようになった緒形さんは、ついに若手時代の代表作「太閤記」とめぐり合うことになります。

らくはく修士

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA