■緒形拳のテレビ界進出①~「新国劇アワー」の時代~ 2020.11.9

お久しぶりでございます。あれとこれと2か月ぶりの投稿となってしまいました。

現在、横浜市歴史博物館で開催中の「俳優緒形拳とその時代 戦後大衆文化史の軌跡」はご覧になったでしょうか。まだ観覧されていない方は、12月6日(日)まで開催していますので是非お越しください。台本、写真、パンフレット、書画、映像等々展示品がかなり充実しているので、見ごたえがありますよ!

さて、これまでこのコラムでは新国劇における緒形拳さんの活躍について取り上げてきました。今回は少し見方を変えて、緒形さんがテレビ界へ進出した過程とその背景について、数回にわけてご紹介します。

緒形さんのテレビデビューは、昭和36年(1961)1月~2月まで放送された「新国劇アワー 遠い一つの道」(フジテレビ)とされています。以前、取り上げた新国劇の舞台「遠い一つの道」のテレビドラマ版です。舞台版と同じく主人公・白木保役を緒形さんが演じています。

テレビドラマ「遠い一つの道」で白木保を演じる緒形拳

また、同年には同じ「新国劇アワー」の枠で、テレビドラマ版「丹那隧道」が放送されました。緒形さんは舞台版と同様に主人公・工事技師の川西役として出演しています。

テレビドラマ「丹那隧道」の緒形拳

この「新国劇アワー」はテレビ放送黎明期の昭和33年(1958)頃から放送が開始され、昭和36年(1961)10月まで放送されました(当初は現在のTBS系列にて放送、途中からフジテレビ系列での放送に変更)。内容は新国劇で上演された演目を3~4回分のテレビドラマとして焼き直したものでした。「新国劇アワー」の出演者はもちろん全員新国劇の劇団員です。「国定忠治」、「丸橋忠弥」、「関の弥太っぺ」、「一本刀土俵入」といった新国劇の有名な演目も、舞台と同じく辰巳柳太郎・島田正吾の両巨頭主演で放送されました。

何故、新国劇の舞台がテレビドラマ化されたのでしょうか。主な理由として、当時のテレビ界では現在とは違い、テレビドラマに出演できる俳優が圧倒的に不足していたからでした。その原因の一つが映画界で締結された「五社協定」にありました。

「五社協定」とは昭和31年(1956)10月、テレビの台頭に危機感を覚えた東宝・松竹・大映・東映・新東宝の5社(昭和33年に日活が加入し、のちに6社)が、それぞれ自社で抱える専属俳優のテレビ出演の制限などを取り決めた協定のことです。つまり、映画俳優は自由にテレビ番組には出演できなかったのです。

テレビ局はこの「五社協定」に対抗するため、新派や新劇の劇団と専属契約あるいは提携を結びました。劇団員をテレビに起用することで、演者不足を解消しようとしたのでしょう。その結果、劇団員総出演あるいは各劇団特有の演目を実写化させた放送劇(テレビドラマ)が制作されたのです。

舞台を実写化する手法は、まだこの頃のテレビ番組自体の制作技術が未熟であったことと、いわゆる「テレビスター」、「テレビタレント」不在のあらわれでもありました。しかし、これを機に多くの劇団がテレビに進出することになりました。

「新国劇アワー」が制作されたのはこうした時代背景があったのです。一方で、「新国劇アワー」が視聴者に受け入れられたということは、「新国劇」が大衆文化としていまだ勢いがあったことを意味します。なぜ、「新国劇」はテレビから姿を消したのでしょうか。それは回を改めて、述べることにしましょう。

らくはく修士

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